昭和五十七年五月二十九日 朝の御理解
御理解第八十八節
「昔から親が鏡をもたして嫁入りをさせるのは顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思ふ時鏡を立て悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよ、と云ふ事である」
先日、或る方がお夢の中に、こうはっきりと、これが御神夢と云うものであろう、これがお知らせであろう、と思われるようなお夢を頂いた、と云うのです。
お夢の中に分かりやすく色々と図解がしてある。真ん中に○が書いてあって、又その上に○が書いて、又その上に○が書いてあって、と云ったような。その図解を此処で示しながら、どういう意味だろうか、と云う訳であります。
それにその図解を付けるようにお夢の中で頂いておられるのが、真ん中の○が道徳、その上の○が普通道徳と頂いた、と云うんです。 本当に道徳と云うようなものは大切なものでもあるし、人間が生きていく上で自分の身を守る、家を治めていく、又、国を治める。そしてその道徳の心が篤い人が立派な人だと、こう云うております。 そう徹底した道徳でないでも普通道徳と云うのはね、義理人情に篤いと云うような生き方、だからその時点時点でそれは尊い事でもあり、又、そういう道徳的な生き方をする、と云う事は有難い事でもある。
ところが、教祖金光大神の御信心を段々頂いておりますと、道徳が説かれ普通道徳が説かれ、そして又、とてつもない、超道徳が説かれてあるのです。
この八十八節は、ぴんからきりまでのおかげの受け方と云う信心のお育てを頂き、幼稚園から小学校、それから中学校、高校、大学、と云うように、お互いの信心をお育て頂く事によって、お夢の中に頂いたと云う、その道徳、普通道徳、超道徳、と云うような事が分かってくるんですし、人間の本当の幸福と云うのは、超道徳によらなければならない。云い換えれば、信心によらなければならない。と云う事を合楽では説きますから、この八十八節を頂く時にも此処ん所が分かれば、もう広がりに広がっていくんだ、と云うふうに申しますよね。
お徳を受けられる、と云うのは、このお教えを超道徳的見地から説きますから、広がりに広がっていくんです。
娘が嫁入りをする時に鏡を持たせる、それは顔を奇麗にする為ぢゃないね。家風の違う所に行くのだから、色々と難儀な事もあるだろうけれども、人に悪い顔を見せてはならん。
鏡を立ててはね、自分の悲しい顔とか、腹立たしい顔とかを人に見せたりするな、とね。そういうふうにして家を治めていけよ、と云うのですから、まあ、普通道徳的な事だと思うですね。
これは幼稚園の時に習う、小学校の時に習う、中学校で習う、高校で習う、と云うふうにその内容を深めてまいりますと、黙って治めよと云うような事になって来る訳ですね。
合楽の場合黙って治める、と云う事の内容はどういう事か、と云うと、それが本当なのだから、それが天地日月の心になる一つの手立てなのだから、いやむしろその事は御礼を申し上げねばならない事なのだから、と教えるでしょう。だから黙って治められる。
又、その黙って治める所には、それは何とも云いようのないような働きが起こって来る、いわゆる実顕実証をさして頂きながら、此処の所、超道徳に挑戦して行く訳ですね。
超道徳をいよいよ身に付けて行く場合には、お教えにもあるように、例えば、泥棒だと云われても、乞食だと云われても、腹を立てな、と云う事は、黙って治めよ。と云う事でしょう。
神が見ておるからしっかり信心の帯をせよ、と云う事はね、誰が何と云うてもね神様が見ておって下さるのであり、聞いておって下さると云う事。
これは私の場合であると、人非人的な表現で云われた時代もありましたが、例えその人非人と云われるような事があっても腹を立てるな、腹を立てる段ぢゃない、神様の御神意を頂くと、もう御礼を申し上げなければならない事である。
お前は人非人だ、あれは人間の面かぶっとるけれども犬畜生な者にもおとり果てた、と云う時に使うのが人非人ですね。ところがお前は神様に向かって進んでいってるのだから、もう人間ぢゃないのだよ、神に向かって進んでいっとる、人非人と云うのはその過程なんだ。
はあ、そう云われれば本当にそうだ、してみると御礼を申し上げなきゃならん、私の心が神様へ向かっておる、と云う事なんだと分かる時に御礼を申し上げずにおれんでしょうがね。
いわゆる超道徳に入って行っとった訳ですね。
だから此処で、この御理解の時にいつも頂く、黙って治める、と云う事はね、なぜ黙って治めねばならんか。
黙って治める事が本当なのだから、本当の事が分かれば分かる程、御礼を云うていくような心になるから治まる以上の、思い以上のおかげに、次はなって来るのであるね。
だからそれに徹すると云う事は、やはり自分の信心が進まなければ出来ない事です。
本当の事が分からなければ、先生が黙って、といわっしゃるけん黙っとるばってん辛い事ではある、と云う事ではいかんのです。
黙って治める事が本当なのだ、その事に対して御礼を申し上げる事が本当なのだ、と分かるから、八十八節の御理解は、広がりに広がるおかげにもつながっていこう、と云う事になりますね。
福岡の川上さんの話ですと、甘木で長年信心をし、毎朝お参りをなさる人で、電車の中でも、川上さんを待ち受けるようにして話を求められるお方がいらっしゃる、と云う。
兎に角、合楽のお話を聞くのを毎朝楽しみ、おかげの泉、合楽だより、天の心、地の心を、いつもポケットに入れて毎日お勤めに行って一回だけは読まれると云うのですからね、そこから生き生きとしたものが生まれます。
私も過去何十年の信心の中に、こういう毎日を生き生きとした心で過ごせる、と云う事はなかったです。
先日も小倉の教会にお参りをさせて頂いて、合楽の話を電車の中で頂いたり、御本を読ませて頂いて、自分の心が生き生きとしておる事をお届けされたら、桂先生が大変お喜びになった、と。
甘木の今の親先生にも、合楽のお話を頂いて、こうやって日々生き生きとした信心生活が出来ておる事を有難いと細かにお手紙に書いて、御礼のお届けをさして頂いたら大変喜んで下さった、と云うお届けが昨日ございました。
合楽のお話と云うのは、本気で求めて求めておって分からなかったものが、甘木にあった訳ですね。
例えば、先だって久留米の四十年の記念祭に大牟田の近藤先生がおっしゃっておられたように、ああいう大徳の先生の後にどうして四十年間こんな事が続くであろうか。
もう久留米教会がおしまいになるか、と思うような事があった、と云う話をなさいましたよね。
そういうような所に触れる時に、金光様ちゃ有難いばってん、教会でどうしてあんな事が、とやっぱりそれが疑問になっておる人達も沢山あった。甘木も同じ事である。
当時日本一と云われる大徳の先生の所のお教会で、どうしてあんな事が、と云うような事が信者には分からなかった。
それが、今度合楽のお話を頂き、あの天の心、地の心を分からしてもらうと、今迄の疑問が一辺に一掃してしもうた心の喜びを、川上さんに語られたと云うのです。それはどういう事でしょう。
合楽教会で私の体験を神様のお知らせを、直に皆さんに聞いて頂く。私自身私の家庭お教会そのものがその通りにおかげを頂いて現しておる、と云う事があるからです。
合楽の場合は、一寸不思議だ、あげなとこが分からん、と云う所がないでしょう。
どうですか皆さん。合楽の私の上に現れてあるおかげで、疑問になるような事があるですかね。それは合楽の教えがいかに十全であるか、と云う事なんです。
十全のおかげが私の上に現れておるのです。だから私の云う事を皆さんが本当に実顕実証してね、その十全のおかげを頂いていく事の為に精進しなければいけませんよ、と云う事なんです。
昨日は久留米の安藤さんの所の謝恩祭でした。
本当に一年一年信心が充実していっておられる、しかも安藤さんの場合には、一家を上げて本当の信心に向こうていこうとする、姿勢のようなものが段々出来ていきよる。
朝、社長である勇治さんが参って見え、そのすぐ後には若い嫁さんが子供連れで参って来る、お父さん、お母さんはこの頃身体があまり良くないので一生懸命のものを合楽に思いをかけていかれる。 親子家族一同がね、合楽、合楽と傾倒していかれる。
こちらの方へ見えられてから家を五辺代わっておられる。
その五辺代わっておるとが、いつもその家を追い立てられるようにして代わっておられるのです。だからもうどうにも仕様がないけれども、そこにちゃんと家がある。
これが、あそこの場合、家があるだけぢゃ出けんですからね、あれだけの仕事をなさるから必ず工場が伴のうてなからないかんですから、そりゃ難しいですよ。
ところが、神様の御手をもってするならば、難しい事のない証拠に、その都度その都度代わっていく度に、立派なお家になり、立派な工場になっていっておる、と云う事。
これは二、三日前、安藤さんのお母さんがお願いに出て見えて、本当に考えてみると、おかげ頂いたもんぢゃあります。
今、工場の方で五十人位の人が働いておりますと云うのです。そりゃもう大変な所を通られたけれども、それこそ一途に貫かれた。 夕べ、私あちらへ参りまして一時間ばかり時間がありましたから一寸横にならしてもらった。
お夢頂いたのがね、なが~い綱、いわゆる軽技師がする綱渡りを高ぼくりを履いて傘をもって安藤さんが渡っておられる。しかも渡りきっとるだけぢゃなく、行ったり来たりしとられる所、を頂いたです。
まあスリルと云うかね、脇から見たらヒヤヒヤ、もう落ちるだろう、もう落ちるぢゃろか、と云ったようなとこをスリルを感じながら、何十年間信心を続けて来られた、と云う事でしょう。
この事は又行ったり来たりしとるだけではいかん、やっぱりそれこそ大地に根を下ろしたような信心、大地を喝破する、そういう誰が見ても安心、と云ったような信心の状態になってなければならない事は勿論だと、私はそのお夢の中から思いましたけれどもね。
兎に角、段々おかげを頂いて繁盛の糸口が出来かかりつつある、と云う所、その頃には家族中の者の信心も、構え姿勢と云うものが、同じ姿勢が取れれるようになってきた事が有難い。と云うて、昨日お話をした事であり、御礼を申し上げた事でございますね。
信心の足並が揃わないとね、それは今日も先程申しますように、幼稚園から小学校中学校の段階があります。
この前の二十五日の婦人会の時に秋山さんが発表しておられました。
おかげを頂いて、長男の光幸さんが段々信心になって行く。光幸が云う事には、お母さん達はお願いお願いばかり云うて日参り、夜参り、一生懸命参るがそれは間違ってる。僕はおかげを頂いて、もう御礼の事ばっかりしか考えとらん、僕のが本当だ、と。
結局そこん所までは分かっておる、と云う事なんです。
そりゃまあ皆さんも聞とっておかしい、と思うでしょうけども、お願いをする、おかげ頂く、御礼参拝をする、これはもう誰でもその通りです。
だから御礼だけ申しときゃよか、と云ったような事を云われた、と云う事ですけども、それなら光幸さんに云うて聞かせようと思うなら、本当の事云うたら願わずにおれん事ばっかりばい、そん為には修行がいるばい、朝参りもどうでも必要ばい、それが有難くなっていかなきゃ本当の信心ぢゃないばい、とこうなる。しかし難しい事云うても分からんですね。
今日の御理解で云うならば、道徳的な、又は普通道徳的な所でしか神様をとらえていない訳ですからね。この黙って治める、鏡を立てて悪い顔を人に見せないように、悪い顔を見せる所ではない、むしろ喜び、むしろ御礼を申し上げれるような事に今迄は悪い顔をしておった、腹を立てておった。と云うような事に気付かしてもらい、そういう有り方になる事が本当なのです。
合楽で云われる十全の信心を身に付ける、と云うような事がそんなに簡単に出来るとは思われない。云うなら大学院にでも入らせてもらわなければ、今私が云うておる本当の事は分からないでしょうし、又はね、行じられもしない事ぢゃないかとね。
只、そこまで至る時に、信心と云うものは本当は見やすくなるのであり、有難いのであり、楽しいのであり、もうそこにはおかげと云うものが、いやと云うてもついて来る、と云う事になります。
そういういわば一番難しい所を皆さんは日々稽古なさっておられるのだし、又、教えを受けておられるんです。
だから、此処は道徳でいった方が、此処は普通道徳で行った方がよかろう、と云うような事もあろうけれども、それで行ってならんのぢゃない、その辺の信心を段々分からして頂いてね。
兎に角、一人の信心が周囲に及ぼして、それが足並がそろうた信心になっていくようなおかげ、そこに程度の低いのがおっても、それを責めたり、と云う訳にはいけん、只、それが本当に間違いなく育っていく事を願いとしなければならない。
教えを頂いて、あ、此処は辛抱せんなんならん所、と云うて心ではグーグー云いながら辛抱していく、と云う程度の時には、これは普通道徳か道徳の所でしょうね。
ところが合楽の場合は、むしろその事に御礼を申し上げなければならない訳、その事を有難い、と思える、事訳を聞かせて頂くのですね。だからやはりそこを抜けなきゃなりません。
この八十八節、広がりに広がる程のおかげ、と云うのは、私が一人辛抱しときゃよか、で家を治めていく、と云ったような事では、広がりに広がるような御信心の徳と云う事にはなりませんね。
治まりはしましょう、その場はね。けれども合楽の場合はどこまでもね、道徳、いや普通道徳ではつかみ所のないような信心ですね。 超道徳、と云うのはね、そこに至って初めて、合楽で云われるシ編にムクチと書いて治めると書くようにね、黙って治める、と云う事が、超道徳なんですね。
その事に対して御礼が云えれるような心の状態をめざして、お互い信心の稽古をしておるんですね。
中々、合楽の信心を語ると云うのは本当に難しいです。
その甘木の御信者さん、毎朝川上さんが会われると云う方は、何十年間と云う間、求めに求めて来ておったものが分からなかった与えられなかった、それが合楽の信心によって一つ一つ解明されていくその喜び、その楽しみ、兎に角、日々が生き生きとした、これが本当の信心生活だろうと思います。と自分で云われるそうですね。 長年金光様の信心頂いて来たけれども、こういう生き生きとした心になった事は初めてだ、とね。だから充分稽古に稽古、それこそ安藤さんぢゃないけれどもね、脇から見てもスリルを感じるような綱渡りのような信心をして来て、今の合楽理念を本当に分からしてもろうて家族中の者が勢を揃えてね、ま、黙って治める、と云うのを「合楽理念による黙って治める」と云ったような事を一家中で分からして頂く時に限りない今稽古の一途をたどっとる。
明光株式会社、と云うその会社がね、広がりに広がって行く基礎が出けておる、と云う事を昨日感じました。
足並がみんな揃って来た、一人でも引っ張る者がおらんね。
本当に有難いと云う事です。私がこれを只、淡々と説きますから昨日そういうふうに川上さんのお話を聞いて、甘木ですら久留米ですらこうだった、と云うのに合楽ではおかげを頂いておる。ほんなこっぢゃろか、と思うようなおかげが合楽では現れておる、と云う事はいかに十全の信心であるかと云う事であり、そういう十全の信心を皆さんが本気で身につけられる、と云う事が私の願いなんです。 皆さんの家庭の上にもです、そうした十全の足ろうたおかげが頂ける信心を頂いていく為にね、道徳や普通道徳から、もうその辺は卒業した、いよいよ超道徳の限り無い信心に取り組んでいかなければならん、と云うふうに思います。
「どうぞ」